こちらの記事では、僕が小学校6年の時に赤穂浪士にどハマりしたことについて書きました。
テレビドラマ『忠臣蔵』をきっかけに赤穂浪士に興味を持った僕は、自宅から1時間以上かけて47人のお墓がある「泉岳寺」に行ったり、ドラマで討ち入りの際に大石内蔵助が打ちならしていた太鼓を買って自室で鳴らしてみたりと、赤穂浪士に入れあげていました。
極めつけは、卒業文集よ。作文のトピックに「赤穂浪士」を選んでいて、小学校6年間の想いでを綴るクラスメートたちと比べると、僕の文章は完全に浮いていましたね。
そんな感じで赤穂浪士への僕の偏愛を綴ったわけですが、歴史にあまり詳しくない人からすれば、「そもそも赤穂浪士って何?」「なぜ47人は吉良さんの屋敷に攻め込んだの?」と疑問しか浮かんでこないと思うんだ。
そこでこの記事では、赤穂浪士が討ち入りに至った理由を説明しようと思います!
赤穂浪士の「赤穂」とは、地名のことを指しています。兵庫県赤穂市のことね!
江戸時代、赤穂市辺りには赤穂藩という藩があって、そこを治めていたのが浅野さんという大名だった。
余談だけど、赤穂は塩が有名!いまでも「赤穂の天塩」の名で全国に出回っているけど、浅野さんが殿様を勤めていた時代から塩業は盛んだったんだよ。
ちなみに藩とは、江戸時代に日本を統治していた徳川氏が、彼らと主従関係にあった大名に与えた領地のことを言います。
藩は現在でいう都道府県のようなイメージなのだけど、各藩の大名にはある程度独自の政治が認められていた。ちなみに江戸時代には全国に約250〜260の藩があったと言われているよ!
一種の独立国家みたいだからね、当時の人にとっては藩が自分の「国」であり、アイデンティティーでもあったんだ。
自分は日本人というより、◯◯藩の出身との意識が強かった。
現代でも郷土愛が強い人っているじゃない?そんな感じで、赤穂の武士たちにとっては赤穂は自分にとって大切な場所であり、浅野さんは愛すべき自分の国を治める君主だったわけです。
続いて赤穂浪士の「浪士」とは何かなんだけど、浪士とはこどの殿様にも仕えていない武士のことを言います。いわば、無職の武士ですね。つまり赤穂浪士とは「かつて赤穂藩に仕えていたけど、現在は無職の武士」という意味になります。
赤穂藩で浅野さんの家来をしていたのに、彼らはなぜ職を失ってしまったんだろう?
いよいよ本題に入りますよー!
1701年、時の将軍・徳川綱吉は江戸城で天皇の勅使(お使いの人)をおもてなしすることになり、気合いが入っていました。
当時は武家政権だったから、徳川さんが日本の統治者として君臨してた。
そんなえらーい将軍も、「神聖な存在」として見なされていた天皇には最大限の配慮をしていました。
皇族と武家では身分がそもそも違うし、天皇のことは「天子様」と呼ばれることもあったからね。
天の子と書く時点で、武士とは別格な存在であることがわかります。
天皇本人ではないとはいえ、天皇の使いの人が京都からわざわざ江戸に来るとあって、綱吉さんは「よし、しっかりおもてなしするぞ!」と思っていたわけです。
このとき、勅使を接待するという重要な役割を担ったひとりが、赤穂藩主の浅野さんでした。
でも武芸を売りにする武士にとって、公家や天皇家が重んじる作法はわかりにくいもの。礼儀作法に明るくて、教えられる役割の人に教えを請いながら役目を果たさなければいけません。
その先生が、吉良上野介さんでした。
吉良さんは「高家」(こうけ)といって礼儀作法の指南を専門にする職に就く人で、武人というより文官に近い存在だった。
話が逸れるんだけど、吉良さんは室町幕府の将軍・足利氏の一門の子孫なんだよ!かつての将軍家の親戚とあって、家柄の高さは抜群です。生まれがよくて、教育もしっかりとされたエリートでした。
ところが礼儀作法の教育のプロセスで、吉良さんと浅野さんの間に何らかのトラブルがあったようなんだ。どんな揉め事があったのか真相は闇なのだけど、浅野さんは3月14日、勅使のおもてなし最終日にとんでもないことをしでかしてしまった。なんと、江戸城内で吉良さんに刀で斬りつけてしまったんだ。
江戸城内にある「松の廊下」を歩いていた吉良さんの後ろから浅野さんが駆け寄り、
この間の遺恨、覚えたるか?
と発しながら、式典参加用の小さい刀を抜いて吉良さんの頭部と背中をバサッ!!。
ぎゃー!!
吉良さんの叫び声が廊下に響きわたる。
突然のことに現場は大騒ぎです。
刀を持って興奮する浅野さんを周りの武士たちが必死に押さえつけ、頭部と背中に刀傷を負った吉良さんは急いで医師のいる部屋に運ばれた。
江戸城内は「殿中」と(でんちゅう)といって、神聖な場所とされていました。
そこで刀を抜き、人に斬りつけたのだから浅野さんは重罪を犯してしまった。
まずかったのは、場所だけじゃありません。
よりによって、天皇の勅使が来ているときに流血事件を引き起こしてしまったのです…。
城内で事件を知った人たちは、「浅野さん、詰んだな」と思ったに違いない。
浅野さんだって、殿中で抜刀することのヤバさはわかっていたはずです。
赤穂藩を治める大名で、多くの家臣がいる殿様である浅野さんは、なぜなんでこんなことをしたんだろう?
実は、その理由はよくわかっていません!
事件後に浅野さんが取り調べを受けたとき、「遺恨があった」とは話していたけど、詳しいことを話さなかったんだって。
ドラマでは、吉良さんは底意地が悪い人で何かにつけて浅野さんにつらく当たり、度重なる嫌がらせに耐えられなくなった浅野さんが吉良さんに斬りつけるのが定番です。
たとえば、勅使のおもてなしで使う寺の畳を張り替えないといけないのに、吉良さんはギリギリまで浅野さんにそのことを伝えず、浅野さんは慌てて全張り替えしてことなきを得た、なんて話があります。
あとは儀式で着る服の種類を間違えて伝えたという話も。
なかなかの嫌がらせだね!意地悪すぎる。
でも冷静に考えると、将軍の大切な客人の接待係を教育する吉良さんがそんなことをして得るメリットってないよね。
もしお寺で畳が古いままで見た目が汚かったら、勅使から「礼儀作法の指南もできないのか?」と思われてしまい、吉良さんの面目は丸つぶれですから。
2人の間に何があったかはわからないけど、浅野さんが吉良さんを切りつけてしまったのは事実。
ここで浅野さんが見事に吉良さんを倒したら、めでたしめでたしなんだけど、浅野さんは吉良さんを討ち漏らしてしまったんだ。
浅野さんには気の毒なのだけど、ここで吉良さんが生き残ったことで、忠臣蔵の感動的なストーリーが生まれることになる。
大事件を起こした浅野さんはその後どうなったんだろう…?
真相を闇のままにして、浅野さんはその日のうちに幕府から切腹を命じられてしまいました。
客人の接待中に殺人未遂事件を起こした浅野さんに対して将軍は大激怒!
浅野さんはろくな取り調べもないままにその日のうちに「腹を切れ!」と言われてしまったんだ。
罪人とはいえ、浅野さんは赤穂を治める大名ですよ。
しかも「遺恨があった」と話しているので、よほどのことがあったはず。
なのに浅野さんは真剣に事情を聞かれることなく、田村さんという大名の屋敷に運ばれて、庭先で切腹して30代半ばでこの世を去った。
浅野さんの身分であれば、切腹は座敷で行うのが当時の常識でした。
庭先は、もっと身分の低い人の死刑の場所に選ばれていたんです。それなのに、浅野さんに庭先での切腹を許さなかったのは、将軍の強い怒りがあったからなんだろうな。
浅野さんにとって庭先での切腹はひどい屈辱だったに違いないし、悔しさいっぱいで死んでいったのだと思う。
浅野さん、かわいそうすぎる。
城内で刀を抜けばその後どうなるかくらい、浅野さんはわかっていたはず。それでも抑えられない気持ちから吉良さんに斬りつけたのに襲撃は失敗。申し開きをする時間もなく切腹なんだから。
そしてたまったものではないのが、浅野さんの家来たちです。
突然、藩主が大事件を起こして死んでしまっただけでなく、幕府はさらなる罰として浅野さんの家を断絶させるという重い処分を下してきたんだ。
お家のお取りつぶしってやつです。
江戸幕府では家の取りつぶしのルールを決めていました。たとえば、跡継ぎを決めずに殿様が死んだとか、幕府の許しなしで勝手に城を改築した場合などです。
各藩の殿様は、お取りつぶしを恐れていて、幕府から目をつけられないようにしていました。
加賀100万石で有名な加賀藩(今の石川県あたりにあった藩)のとある藩主は、幕府から「こいつ、アホだな」と思われるようにわざと鼻毛を伸ばして江戸城を歩いたそうです。すごい気合いの入りようだ!!
話を赤穂藩に戻しますね。
幕府からの浅野家お取りつぶしの命令を受け、浅野さんの家来たちは無職になってしまいました。
現代でたとえたら、会社の社長が不祥事を起こした末に突然死して、その後すぐに会社は倒産して職を失った、という感じです。
家族を養う必要があるし、家来たちは困ったと思うよ。
赤穂城は他の殿様に明け渡され、家来たちは居場所がなくなってしまいます。
つらすぎる…。
一方の吉良さんはどうなったかというと、幕府からは何の罪にも問われずおとがめし。
浅野さんに襲撃されても、場所を弁えて手向かいしなかったことが評価されたみたい。
罰せられるどころか、将軍から心配の言葉までかけられる始末。
浅野さんは即日切腹とお家お取りつぶし。
吉良さんはおとがめなし。
完全に吉良さんに有利なジャッジです。
吉良ぁーーーー!!!ふざけんなよーーー!!!
浅野さんの家来たち怒り狂のは当然だよね。
家来たちの中には、他の藩の殿様のところに再就職をした人もいました。
これも普通だよね。だって武士だって生活をしないといけないから。
でも家老の大石さんをはじめ、「吉良、許すまじ!」と息巻く武士たちは仕返しを画策し始めます。
2年近い歳月をかけて綿密に準備をし、1702年12月14日、47人の赤穂浪士が吉良さんの屋敷に突入し、浅野さんの無念を見事に晴らします。
これが、赤穂浪士の討ち入りの背景です。
討ち入りを成功させた後の赤穂浪士たちはどうなったのだろう?
彼らは幕府に自首をした後、細川さん、松平さん、水野さん、毛利さんという4人の大名の屋敷に預けられ、裁判の結果を待つことになりました。
47人を4つのグループにわけるので、だいたい10人ずつくらいだね。
(1人だけ討ち入り後に失踪しているので、正確には46人なんだけども)
関ヶ原の戦いから100年ほど経ち、武士が合戦をしなくなった時代に亡き主のために仇討ちをした赤穂浪士に対して、江戸の民衆は拍手喝采を送ったんだ。
それにもともと赤穂浪士に同情する声もあったから、幕府は裁きをどうするか迷います。
即日判決を下した浅野さんとはえらい違いですよね!
赤穂浪士がしたことって、集団での殺人にほかならないんです。
なので厳罰はさけられなかったはず。
でも彼らの行動に感動する人は多くて、預かった大名のひとり細川さんは幕府に助命してくれとお願いをまでしているんだ。
細川さんは罪人である赤穂浪士を手厚くもてなして、命を助けて自分の家来にしたいと考えていたみたい。
1703年2月4日、赤穂浪士は預けられているそれぞれの屋敷で切腹しました。
死後は浅野さんのお墓がある泉岳寺に葬られ、殿様と家来が一緒に眠っています。
以上が赤穂浪士が吉良さんの屋敷を襲った理由です!
ふー語ってしまった。楽しかったー!
こうして文章にしてみると、僕の赤穂浪士熱はものすごかったんだな…。
休みの日は赤穂浪士についての本をずっと読んでたし、録画したドラマを何回も見ていました。
赤穂浪士と結婚したいくらい好きだったよ!
そうそう、書きながら思い出したのだけどね、僕は6年生のとき、47人の名前が書かれた湯呑みを使ってお茶を飲んでいました。
とにかく、浪士たちを身近に感じていたかったんだ!
太鼓にポストカード、湯呑み茶碗。
僕の部屋は赤穂浪士のグッズだらけでした。
そもそもなんだけどね、僕はなんで赤穂浪士に魅力を感じたのだろう?
忠臣蔵は演劇のテーマのため、脚色が多いんです。
吉良さんのいじめに耐えられなくなった浅野さんが刀を抜いてしまうのが定番だけど、実際、のところ、浅野さんがなぜ吉良さんを襲ったかわからないままですからね。
浅野さんは「遺恨があった」と言うけど、もしかしたら浅野さんの思い込みだった可能性もあるわけで。
浅野さんは接待役にストレスを感じていたようだし。
となると、吉良さんが100%浅野さんの仇だったと言い切れないことになる…。
え、じゃあ、赤穂浪士がしたことは仇討ちじゃない?
飛躍した考えだけど、こんな見方ができるくらい、赤穂は朝たちには謎が多いんだ!!
本当はどうだったのかな?
12歳の僕は、そんなふうに謎を解こうとするのが楽しかったのかもなぁ。
久々に赤穂浪士の本を読もうかな!