自分の心の声を無視できなかった
4月3日(日)にとある企業の面接に行ってきたのですが、会場で強い違和感を感じ、面接中に手元のノートに英文で"Is this what I really want to do?(これって僕がホントにやりたいこと?"と書くなど、自分の心の声を強く感じ始めました。
もう無意識に書いていました。
学校で退屈な授業を受けている時に書く落書きのような感じでしょうか。
そもそも、前日スーツに袖を通した時点で強い嫌悪感を感じていました。
とにかく、生き心地が悪かったんです。
面接帰りの電車の中で、iPhoneのメモ帳に湧き出てくる気持ちをたくさん書いていました。
本当に進みたい道を歩もうとしているのか?
そう思って悶々としました。
志望動機が言えない
決定的だったのが、翌4日(月)の面接でした。
面接では企業側から志望動機を聞かれますよね。
それが言えなかったのです。
初めての経験でした。
志望動機らしいことを話しているうちに、「これは僕が思っていることじゃない」と感じ始め、途中で言葉が止まりました。
僕がやりたいことは、これじゃない。
志望動機が言えないって、面接を受ける気があるの?って感じですよね。
客観的に見たら、そう思う。
志望動機など言えるわけがないんです。
動機そのものが僕の中にないからです。
嘘はつけなかった。
好きなものを選ぶ習慣
妻と出会い、結婚することで、妻からたくさん影響を受けてきました。
中でも、自分の好きなものを真剣に選ぶことは、結婚後に真剣に取り組むようになったことのひとつです。
妻は僕に、「100(%)よ」とよく言ってくれました。
食べ物や行動を、100%食べたいか、やりたいかで選択して欲しいといつも言ってくれました。
お昼ごはんを決めるとき、カッパ巻きにするか納豆巻きにするかを真剣に考えています。
妻と付き合い始めのとき、「それって100で食べたいと思ってる?」と言われましたが、
正直に言って、食べるごはんなんてなんでもいいよと思っていました。
そんな小さなことを真剣に考えることが馬鹿馬鹿しいと感じてた。
でも、そうした小さなことを真剣に考え、100%の気持ちで選択できないと、
大きなことではもっと選択できない。
なぜってこれは習慣だから。
いつもやっていないことは、急にできない。
朝、コーヒーにするか紅茶にするか緑茶にするかを考える。
同じコーヒーでも、DRIP ONにするかMON CAFEにするかで考える(笑)。
(ピンボケ。。。)
そうやって小さなことでも自分が100%やりたいのかを基準にすることで、自分の心に正直になる習慣がついていったのかなと感じています。
だから、自分の意に背くことをやろうとすると、違和感という形で反応するのだと思います。
面接の志望動機だって、かつての自分であれば、もっともらしいことを言い切ったと思う。もう自分自身に対して嘘がつけなかった。
考えてみれば、妻と出会う前までの生活では我慢の連続だったと思う。
実際には、自分が我慢をしていることすら気づいていなかったと思う。
自分の心に対して不感症になっているような感じだった。
休みたくても休めない。
言いたくても、言えない。
ホントはこうしたいのに。
ルールだから、仕方ない。。。
枠組みが決まっているから、できない。仕方ないと考えていたんです。
でも好きなことが、その枠の外にあったとしたら、諦めてしまうのか。
書くことを仕事にしたい
実際に企業に行って面接を受けることで、僕は自分自身の中にある本当の気持ちに気がつくことができたように思います。
僕は書くことが好き。
取材が好きなんだ。
面接のとき、企業の採用担当者と相対しても、質問をして記事を書こうとする。
日払いや派遣の職場に行っても、様子はどうなっているのかを探ったり、他に働いている人に話を聞いたりして、
どうやって記事を書こうか考える。
何より、写真を撮りたくて撮りたくてウズウズする。
生活を困らせないためのお金を稼ぐことは大切です。
僕はそれを、自分が大好きな書くことで成し遂げたい。
やりたいことがあるなら、それを実現させるために時間(命)を使わないでどうする!
そう思いました。
日払いも派遣も、それはそれでお金を入れるという意味ではひとつの手であり、いっときはいい。
しかしそれは僕の望みの生き方ではない。
考えることをやめてしまったら、ダメ
心境の変化をさらに感じたのは昨日です。
朝からとある工場で仕事をしてきました。
勤務先の工場では、仕事がかなり細分化されていて、スタッフは本当に些細なことをすればいいことになっています。
例えば、シートを敷くとか、コンベヤーに乗った商品を選別、パッキングするとか。
だだっ広いフロアには所狭しと機械が並んで、常時稼働している。
人が機械を使って仕事をしているのか。
機械が人を使って仕事をしているのか。
それがかわからなくなるような光景に衝撃を受けました。
役割がかなり細分化されると、全体像が見えにくくなります。
何かを質問しても、答えられない人が多いし、そもそも答えを持っていない。
私は責任者じゃないしという感じなのです。
第一、誰が責任者かもわからないんです。
とにかく、これだけ(目の前の仕事)をやっていれば、それでいい。
そんな環境だった。
確かに考えることなく、ただ淡々と何かをするのは楽だと思う。
頭を使わないし、同じことをやっていれば30分も経てばコツをつかんで慣れてくる。
そのうち自然に手が動くようになるから。
全体像が見えない状態で、目の前のことだけをやっていると、そのうち考えることをやめてしまう。
そうなったら、人生のあり方そのものを見失ってしまう。
実際、僕は先月からあり方を見失いつつあった。
目の前のことばかりに意識を向けて、僕自身の人生のあり方という全体像を見失ってはいけないと感じました。
望みにつながるように毎日を過ごさないと、そのうち考えることをやめてしまう。
それはまずい。
お世話になっている人からのお仕事の紹介
明日は、とある企業へ打ち合わせに行くことになっています。
先週、お世話になっている方からメールをいただき、実績をお送りしたところ、
お会いしたいとの連絡があったのです。
僕は書くことで仕事をしたい。
どういう勤務形態になるかなどは、明日の打ち合わせでお話をすることになっています。
書くことをやめたら、僕は自分がやりたいことから遠ざかるじゃないか!
書いてこそ、僕だ。
そう思う。
お読みくださりありがとうございました。
薗部雄一
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